著書・論文 Books & Papers
中世において「使徒座/教皇座」と「ローマ教会」は相互に置き換え可能な用語となったが、ラテン語で女性名詞である後者は、女性として擬人化され、それはしばしば母、教師、あるいは花嫁としての表現を取った。このような擬人化はローマ強化にとっての他者との関係を明確にするものとして機能した。「母」あるいは「母にして教師」としてのローマ教会は、人類の救済にとって必要な存在として、また他の教会に優越する比類ない教会としてみなされた。「花嫁」としてのローマ教会は、ローマ司教としての教皇の地位を表現するのに役立った。旧サン・ピエトロ大聖堂に描かれたモザイク画から、われわれは教皇たちの個別性がローマ教会あるいは教皇職という永続的制度へ回収される過程を読みとることができる。このような状況は、11世紀半ば以降の教皇主導による教会改革を通じて教皇権とローマ教会の普遍的権威が強化された事実と不可分の関係にある。
After retracting the hegemonic policy, the Il-khans began to propose a joint campaign to the Western princes and popes from 1260s. On the other hand, after a phase of rumors and fear, the papal dispatches of envoys and letters to the Il-khans acquired a diplomatic and missionary aim. In the course of time, however, the tone of the papal letter became more evangelical. The aim of the delegation of Franciscans (friar Gerard and his colleagues) was clearly to convert to Catholicism and baptize the Mongols, as is shown by not only the letters to Abaqa and Qubilai but also the letters to Gerard and his colleagues. The pope dispatched them as if they were “angels for the salvation” of human beings. The embassy of 1278 was a mission sent by the pope with special faculties. The choice of members seems to have been based on the experience of papal envoy, and not only religiousness or morality but also mastership of the Bible was required as a quality of the missionary. They were financed by the pope as couriers of papal letters to the Il-khans. Here, the collaboration of the papacy and the Franciscans offer a glimpse of the spirit of propagation of Christianity.
教皇はサン・ピエトロ聖堂参事会等に寄進をすることで基金を創設し、それにより死後に教皇の魂の平安を祈ってくれる聖職者を養う。寄進と祈りを媒介としたこの関係は、教皇本人と参事会の間だけに限らず、教皇の親族的結びつきの持続、前任の教皇たちのために祈りを求めるなど、関係の広さを認めることができる。主たる史料の一つとして、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の聖堂参事会が残した『記念祭の書』(Liber anniversariorum)を用いた。この史料は、Necrologi e libri affini della provincia romana, ed. Pietro Egidi, Roma: Forzani, 1908-1914 (Fonti per la storia d’Italia)の第一巻にある。
2018年の日本におけるヨーロッパ中世史の西欧・南欧の研究成果を振り返り、展望を示した。
高校世界史教科書の教員向け指導書に、教科書執筆者が世界史学習の意義について寄せた「学習のはじめに」の一つ。世界史が単なる暗記の科目とならないためには、学習者の内発的な問いを引き出すことが重要である。個人の関心の中心は「いま・ここ・わたし」であるが、そこから「いまではない・ここではない・わたしではない」ものへと関心を拡げることが世界史理解へとつながる。「いま」を起点とした時代へのまなざし、「ここ」を起点とした空間へのまなざし、「わたし」を起点とした他者へのまなざしを育て上げることにより、世界史を学習する意義を深めることができるのである。
高校世界史教科書(検定済)の西洋古代・中世史の執筆を担当。著作者:三浦徹・菊池秀明・篠原琢・藤崎衛・三木健詞・粕谷栄一郎・土屋斎嘉・東京書籍株式会社
イタリア史のハンドブックへの寄稿。中世の教皇権と教皇庁を「普遍性」と「地域性」という観点から解説。
教皇ニコラウス3世がイルハーン朝君主アバカに向けて派遣したフランシスコ会宣教団を取り上げ、1240年代から13世紀後半にかけてのヨーロッパないしカトリック的キリスト教世界とモンゴルのコミュニケーションの変化の仕方を、やり取りされた書簡の内容などをもとに明らかにした。
古今東西(ただし日本史は含まない)の名著をそれぞれ3ページで紹介。「作者」「内容紹介」「解説」「キーワード」に加え、重要な一節を引用し、コメントするというスタイル。
大学で使用される教科書として編まれた共著。古代から現代にいたるイタリアにおけるローマ教皇とカトリック教会の歴史的変遷を解説した。
2015年度歴史学研究会大会合同部会「分裂と統合の場としての教会会議」(於、於慶應義塾大学三田キャンパス、2015年5月24日)(パネリスト:大谷哲、藤崎衛、橋川裕之;司会:高津秀之)の大会報告の一部。12~13世紀にローマ教皇が公会議開催を召集した背後には、何らかの解決すべき問題群が控えていたはずである。これらの問題を意識し、また対処することは、カトリック世界がその圏域の内外それぞれにおける宗教的あるいは政治・外交的事柄に関して観念した自己認識と他者認識の顕在化にほかならない。本報告は、当該時代に固有の上記事象をふまえ、召集文書や開会時の説教、決議文等から、中世中期のカトリック世界が具備した重層的アイデンティティを読み解き、多重的水準での自己統合を解明することをめざす。ここでは教皇アレクサンデル三世主催の第三ラテラノ公会議(1179年)、インノケンティウス三世主催の第四ラテラノ公会議(1215年)、インノケンティウス四世主催の第一リヨン公会議(1245年)に関わる史料を分析対象とした。その結果、当該時期の教皇権にとっての諸問題として、教皇座分裂(シスマ)、カトリック圏の聖職者の宗教規律ないし風紀の刷新、異端、ドイツ皇帝権、ギリシア教会との分裂、ユダヤ人の扱い、聖地十字軍、イスラームやモンゴルの脅威などが明確に意識されていたことが明らかとなった。これらへの対処を協議するための場として公会議の開催が企図されたのである。そこでは公会議開催の主体である教皇権が自己および他者をどう認識するかが否応なく表出するのであった。教皇権が自らの外部と認識し、対立・対峙する者とみなし、自らとの間に線を引いたのは、上記の異端・イスラーム(サラセン人)・ギリシア教会・モンゴル(タルタル人)・皇帝権というこの時期固有の教皇権にとっての他者であり、当時の「教皇権にとってのカトリック世界」の重層的アイデンティティを形成したのであった。
越宏一監修「ヨーロッパ中世美術論集」〈全5巻〉の第1巻に所収の一編。拙稿は巻頭に配置され、続く個別の美術史学論考を理解するための歴史的背景を概観する役割を担っているともいえる。古代末期から中世後期に至るまでの教皇権の推移をたどり、西欧中世の芸術活動の磁場・源泉の一つとなった教皇庁の歴史的特殊性を解説する。
中世教皇庁の成立と発展の契機を11世紀から13世紀にかけての時代に見出し、教皇庁を構成する部局ごとにその詳細をたどった。移動する教皇宮廷が組織編成に与えた影響についても論じる。博士論文を元にしているが、全体像を見るためのレファレンス的な利用も可能となるように改稿した。中世教皇の一覧、『教皇庁構成員一覧』(14世紀初頭成立)の校訂および日本語訳を付す。
<第19回(2013年度)地中海学会ヘレンド賞受賞>
(授賞理由)藤崎氏の『中世教皇庁の成立と展開』(八坂書房、2013年)は、未校訂オリジナル史料を含む膨大なラテン語史料を検討し、高位聖職者の役人から俗人奉公人に至るまで、13世紀ローマ教皇庁の多様な人材の編制を明らかにしている。本書の学術的独創性は、西洋中世の普遍的権威とされてきた教皇権の歴史を「教皇の歴史」ではなく「教皇庁の歴史」として捉え直そうとした点、中世の教皇庁を一つの「社会」として捉え、その構造・機能を追究した点、教皇宮廷の移動に着目し、制度と空間を結びつける重要な視点を提示した点、にある。本書は、中世の教皇庁全体を俯瞰することに成功した力作であり、その学術的価値は高く評価される。よって、藤崎氏に地中海学会ヘレンド賞を授与する。
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(帯の文章より)中世キリスト教の中枢をなすローマ教皇庁。それを、教会の権威を支える理念や世俗権力との政治関係などの高所からではなく、ローマで現実に機能する原則と実態から捉えること。どんな人が、どんな実務をしたのか。財布や印鑑を預かる役人から、パンやブドウ酒を管理する家人まで、ここで描かれる実像はいかにも手触り感にあふれる。手稿史料などを援用しての論証は、このうえなく説得的だ。樺山紘一(東京大学名誉教授・印刷博物館館長)
山川出版社から刊行されている高校世界史Bの教科書『詳説世界史』『新世界史』『高校世界史』用の教授資料における中世ヨーロッパの章を担当。
実教出版社から刊行されている高校世界史Bの教科書『世界史B』用の教授指導書における中世ヨーロッパの章を担当。
アヴィニョンに移転する14世紀初頭までの教皇庁の慈善組織として施与局と救護院を取り上げて考察を加えた。貧者に施しをする施与活動自体はキリスト教の歴史と同じだけの歴史があるはずだが、専門化された組織とスタッフが明確に史料に現れるのはインノケンティウス3世の頃からである。この組織が独自の会計管理を行っていた点などを浮かび上がらせた。他方で13世紀に教皇庁に直属する救護院としてローマの聖霊救護院と移動する教皇庁につねに伴った聖アントニウス救護院などを取り上げて、その活動スタッフの給養の実態の解明を行った。
教皇の歴史に関するコラムを担当。
(出版社のコメント)2000年に及ぶ聖地の歴史ドラマを辿り、歴代教皇と天才芸術家たちが築き上げた至高美に酔う。サン・ピエトロ大聖堂とヴァチカン美術館の詳細案内、教皇庁の秘話を明かすコラムも多数収録。
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2008年度の日仏国際研究集会のフランス語版報告書への寄稿論文として、会議後の最新の成果を取り入れ、海外発信用にアレンジした。
2007年にアリエル・トアフ『血の過越し』(Ariel Toaff, Pasque di Sangue, Bologna 2007)が引き起こした15世紀の儀式殺人の告発をめぐる騒動は、中世のユダヤ人問題が現代のメディアと歴史家にとって単なる過去の話で済まないということをはっきりさせた。この儀礼殺人の告発に加え、1096年に起こった第一回十字軍にともなうライン渓谷諸都市でのユダヤ人迫害を取り上げて、中世ユダヤ人迫害の記憶がどのように構築され、継承または変容したのかについて、同時代人そして現代人の両方の視点から考察した。「記憶」という鍵概念をてがかりとして、歴史認識の問題について考えを深めるきっかけにもなった。
アウグスティヌス,グレゴリウス改革期のパンフレット論争,グラティアヌス教令集などに加えてアレクサンデル三世やインノケンティウス三世などの教皇令などを手がかりとして,思想的な背景を検討。
また,教皇特使の働きにも注目し,彼らの果たした役割から教皇庁側の意図を読み解く試みをおこなった。また,武力行使が正当化されるにあたってのレトリック機能を「平和」などの言葉に注目して分析。
13世紀のローマ教皇庁の組織と役人・家人の仕組みと役割についての研究。
概要はこちらを参照のこと。
2008年の国際研究集会での発表原稿に加筆・修正を施した論文。フランス語版の報告書も出版された。
2007年にアリエル・トアフ『血の過越し』(Ariel Toaff, Pasque di Sangue, Bologna 2007)が引き起こした15世紀の儀式殺人の告発をめぐる騒動は、中世のユダヤ人問題が現代のメディアと歴史家にとって単なる過去の話で済まないということをはっきりさせた。この儀礼殺人の告発に加え、1096年に起こった第一回十字軍にともなうライン渓谷諸都市でのユダヤ人迫害を取り上げて、中世ユダヤ人迫害の記憶がどのように構築され、継承または変容したのかについて、同時代人そして現代人の両方の視点から考察した。「記憶」という鍵概念をてがかりとして、歴史認識の問題について考えを深めるきっかけにもなった。
また、本書には大稔先生(中東社会史)によるコメントも収められている。
大稔哲也「藤崎衛、G・シュレンメル、嶋内博愛、A・ミラ=クリックの論文に対するコメント」(345~355頁)。
以下の事例を取り上げて検討。13世紀の教皇の墓に見られる教皇の横臥像,11世紀から13世紀にかけてのペトルス・ダミアーニ,ベルナール・ド・クレルヴォー,枢機卿ロタリオ(インノケンティウス3世)らの文書,教皇の遺骸から衣服がはぎとられる慣行,教皇が麻くずを燃やし”Sic transit gloria mundi”と唱える儀礼,13世紀教皇の墓碑銘など。以上の検討から,教皇であっても塵に等しい人間にすぎず,しかし世俗の統治者とは異なる,比類なきキリスト教世界の統治者としての地位を獲得した(と観念された)ことを確認する。
寿命を延ばそうという欲求は中世ヨーロッパの人々も抱いていた。そして具体的な理論と実践が展開された。本稿では『老年の症状の遅延について』やロジャー・ベイコンの著作などをふまえ,錬金術を含めたアラビア経由の知識の影響下での養生法や長生術を紹介し,特に13世紀において教皇や高位聖職者たちまでもが大きな関心を寄せていたという事実とその具体例を検討した。
本論文はPDFとして「東京大学学術機関リポジトリ」のウェブサイト上でアクセスできる。
http://hdl.handle.net/2261/20444
http://hdl.handle.net/2261/20450 二か所の誤植については「正誤表」も参照。
セルヴィティア(セルヴィティウム)とは,「ローマ教皇に直属する」司教や修道院長がその任命または選出承認にあたって教皇に支払うことを誓約した一種の税。教皇と枢機卿団が折半した。
この税は13世紀に成立したが,その過程を当該税の代表ともいえる「セルヴィティウム・コムーネ」を取り上げて考察。このような問題を扱うにあたっては,名称と実践形態の一致・不一致・ずれなどで混同が生じやすいので,細心の注意を必要とした。
基本的研究はゴットロープ(A. Gottlob)やゲラー(E. Göller)など,20世紀前半のドイツ人研究者が占めている。それらをたたき台として,ヴァチカン文書館所蔵の「債務誓約・支払記録簿」(Obligationes et solutiones)という史料を読み解きつつ,支払誓約および支払方法の具体的な実態を解明。
さらには,枢機卿団の経済的扶養,教皇留保権の伸張,貨幣経済の浸透など,当該税の成立のさまざまな背景を指摘する。
卒業論文の改稿版。1209年インノケンティウス三世は南フランスのカタリ派に対して十字軍をさし向けた(アルビジョア十字軍)。異端とはいえ同じキリスト教徒である彼らに武力を行使しようとしたのはなぜか。そのために(1)なぜ南フランスのカタリ派が武力行使の対象となったのか,(2)対異端十字軍の正当性がどのような思想的流れのもとに導き出されたのか,(3)ローマ教皇庁がカタリ派に対してどのような態度を表明したのか,という三点を教皇庁側からの異端認識という観点から考察。アウグスティヌス,グレゴリウス改革期のパンフレット論争,グラティアヌス教令集などに加えてアレクサンデル三世やインノケンティウス三世などの教皇令などを手がかりとして,思想的な背景を検討。また,教皇特使の働きにも注目し,彼らの果たした役割から教皇庁側の意図を読み解く試みをおこなった。また,武力行使が正当化されるにあたってのレトリック機能を「平和」などの言葉に注目して分析。